無宗教は宗教なのか?  ~人の感性は十人十色~

どうにももにょったので書いてみることにした。

「上から目線ヒステリー」について (例の宗教の記事について・後記)

この中で、宗教の定義について触れてあるのだが、これがどうにももにょる。

元もとの「「宗教信じてる?」 「いいえ」 「じゃあ持ってるお守りハサミで切って」 「できない」 「は?」:特定しますたm9(`・ω・´)」の中でも、そもそも宗教とは何か?について、実は専門家と一般人の認識の差異が、議論の元になってる(単なる馬頭もあるが、それは除外するとして)と思う。

で、記事では宗教の定義を以下としている。

宗教定義は細かな部分で未だに議論が続いているが、近代宗教学の親とも言われるオットーは『聖なるもの』のなかで宗教本質をヌミノーゼという言葉表現している。

 オットーによればヌミノーゼとは「それ自体が非合理なもの」で「概念として説明できないもの」であり、また従って、「それは、ある種の特定感情によって人間信条を捉え、動かすようなもの」だ。

 これだけだと、何のことか分かりにくいという奴も多いと思うが、次の例を読めば大体理解してもらえると思う。

 荘厳な儀式を見て、いつもと違う気分になった。

 母親が死んで、その葬式感情的な高ぶりを覚えた。

 森の中を一人で歩いていたらなんだか不安になってきた。森の中に視線を感じる。

  

 これって宗教でもなんでもなくて、ただの「感情」じゃね?って思うやつがいるかもしれないが、それは半分正解で半分間違い。

 結局宗教体験も人の経験である以上、感情的ものと切り離すことはできないし、そういうただの感情アニミズム信仰の「原型」だというのが、現在宗教学とか文化人類学での基本的見解。(以下追記)

 

 *あくまで原型であって、感情宗教では決してない。

  儀式葬式、森といった対象がいかにして(宗教的)感情喚起するのかは専門的な議論になるため省略(11/1追記)

 

で、これだけ読んで一般人であり対して頭の良くないわたしなどは、こう思う訳だ。

【それ自体が非合理なもの」で「概念として説明できないもの」であり、また従って、「それは、ある種の特定感情によって人間信条を捉え、動かすようなもの」】宗教の本質であるなら、宗教を信じないと言う無宗教すら、一種の宗教ではないのか?と。

何を言ってるんだお前は、と言われそうだが、無宗教=宗教の否定ってことなんだけども、無宗教それ自体が、独立では存在しえないよね?って話です。

無宗教は宗教の否定でしかないのですからして、無宗教そのものがどんな概念なのかを説明する事は出来ないと、貧弱な頭で考えた訳です。

 

言葉の遊びじゃないか と言う批判に対しては、その通りです。と言う答えになります。

でも、宗教の定義を 【それ自体が非合理なもの」で「概念として説明できないもの」であり、また従って、「それは、ある種の特定感情によって人間信条を捉え、動かすようなもの」】 とした時点で、宗教とは何か?と言う根源的な問いに対しては、言葉遊びにしかならないと思うのですよ。

何しろ、概念として説明できないし、特定感情と言うこれまた合理的に説明できないもの なのですから。

 

とここまで書いて、自分でも良く分かってないなぁと言うのが分かりました。

まあ、結論として、少なくとも自分の子供は、こんな【意図的・自覚的に嫌がらせの質問をする教授】のいる大学には行かせたくないなぁと思いましたww。

そんじゃーねww

不採用の理由提示は、本当に役に立つのか?  ~人の感性は十人十色~

就職活動の時期なんでしょうか?

不採用の理由と言うテーマで2本(もっと沢山あるのかも?)目に入りました。

【就活生が不満「お祈りメール」 学生に「不採用の理由」を聞く権利はないのか?】

http://www.bengo4.com/topics/893/

企業には、どういう理由で採用しなかったのかという『不採用理由』について開示する義務もありませんし、就活生には不採用の理由を聞く権利もありません

まあ、法的にはその通りですねぇと言うしかありません。

 

で、《脱社畜ブログ》は、不採用には明確な理由がないんじゃないか。そうであるなら、理由の開示は無意味と言うお話です。

【「不採用の理由」なんてそもそも存在しないのかも】

http://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2013/10/28/210029

「不採用の理由を教えてもらえたい」と思っている就活生は少なくないとは思う。理由がわかれば、他社を受ける際に参考にすることもできる。あるいは、自信があったのに不採用になり、純粋に納得がいかないという場合もあるだろう。

不採用を決めた者の心の内には、一応「不採用の理由」も存在するのだとは思う。ただ、それは多くの場合「なんか違うと思った」とか「うちの会社には合わない気がする」というような主観にまみれたもので、いわば「フィーリング」の産物である。この状態の「不採用の理由」を通知しても、採用試験を受けた側は納得できない。

 

ただ、少なくともわたしの経験(採用される側も採用する側も経験ありますが)の範囲ですが、この話は、中途採用には当てはまっても、新卒には当てはまらないと思います。

中途採用の場合、基本的には即戦力を期待しますから、翌日から働いてもらうことになります。となると、職場の雰囲気に合う人なのか?とか社風に馴染む人なのか?を判断する必要があります。

ただ、この判断はご指摘の通り、あくまで面接者の感覚になりますから、言葉には出来ません。論理だった説明が出来ないと言う方が正しいでしょうか。

ですので、わたしは中途採用に関しては、理由の開示に意味はないと言う点で、賛同します。

 

ところが新卒の場合は、少々事情が異なります。

新卒の場合、社風に合う合わないと言うより適合出来るかどうかですが、ブラック企業は除外するにしても、恐らくですが、ほとんどの人は適合出来ると思います。若いから(これはマジな話。年取ると柔軟性が確実に失われます)

となると、最終面接に進んだ人の採用・不採用の分岐点はどこか?

恐らくは、他の人と比較して印象が良かったか悪かったかなのだと思います。

酷い話だと思われるかも知れません。

人を印象で決めるなと言われそうですが、残念ながらその人の将来性を見抜くなんてのは人間に出来ることではありません。

過去にわたしの会社(地方の中堅ソフトハウス)に、何を血迷ったか東大卒の人が応募してきました。試験の成績はさすがに断トツで、採用されたのですが、SEとしては対人関係に問題があり本人も居づらくなったのか、辞めてしまいました。

なので、人の将来を見通すなんて無理。それでも採用するかどうかを決めなければならないのですから、経験と勘と度胸=印象 それも、他の人と比較しての印象 で決めるしかありません。

 

採用する側もされる側も納得の出来る基準があれば良いのですけどね。

個人的には、今世紀中は無理じゃなかろうかと思ってます。

予想が外れると良いですけどね。

 

炎上芸と分かっていても  ~人の感性は十人十色~

なんでこうもイラつく(ツッコミたくなる)記事を書けるのかなぁ。

確かに一種の才能だね。

わたしには要らんけど。心折れるから。

 

Windowsのシェア凋落、わずか4年半で70%から24%に

http://bylines.news.yahoo.co.jp/ikedahayato/20131021-00029086/

 

元記事見たら「Android's Mobile Devices Control 60% Of The Global Computing Platform Market」(http://www.businessinsider.com/s?q=windows+share+2013)じゃねーかよ。

Mobile Devicesって意味わかってます?

ステマしたいなら、もっとうまくやんなさい。

 

総務省のページ「世界の携帯電話販売台数に占めるスマートフォンの販売台数の推移(推計)」

http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h24/html/nc122110.html

 

上から数字を拾うと、モバイル端末は、2009年の1.7億台から2011年には6.5億に急拡大。

 

他方、PCの台数変化はこちら。

「2011年の世界パソコン市場、IDCが出荷台数見通しを下方修正」

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Research/20110607/361117/

 

PCは2009年で3億台から2012年で4億台。

 

上記を合計すると、以下のようになります。

 

PC+モバイル:2009年/4.7億 ⇒ 2012年/10.5億

上記の数字でPCのシェアは:2009年/64% ⇒ 2012年/38%

 

母数が急拡大してるのに、Windowsが凋落でMac万歳って笑うしかないよ。

 

まあ、元記事のコメント(http://www.businessinsider.com/microsofts-biggest-problem-in-one-chart-2013-9)にも、書いてる内容・数字がおかしいだろってツッコミが沢山入ってますがww

 

 

思うに、Apple Storeは、ブログ書いてるやつにMac売るときは、ブログの内容チェックしてから売るべき。

馬鹿にMacを売るべきじゃない。

馬鹿が馬鹿やって、「ああ、Mac持ってるやつは馬鹿なんだなぁ」と思われたら、古くからのまともなMacerは立つ瀬ない。

ただでさえ信者だお布施だと陰口叩かれてるのに・・・。

 

提案1:Macを馬鹿に売るな。馬鹿はMacを買うな。出来ればPCも買うな。

    大丈夫、お前のやりたいことはスマホ(+タブレット)があれば必要十分だ。

提案2:馬鹿はノマドになるな。

提案3:馬鹿はブログを書くな。

提案4:自分が馬鹿かどうか分からなければ、ブログを書いて人に見せて感想を聞け。

    賛否両論なら馬鹿じゃない。普通に生きていける。

    NGが圧倒的多数なら、馬鹿か天才だ。好きな道を選べ。茨の道だとは覚悟しておけ。

    賛美が圧倒的多数なら聖人君子かカリスマか裸の王様だ。好きに生きろ。

 

そしてこの提案に「馬鹿はお前だ」と思うなら、大丈夫、あなたは馬鹿じゃない。

対案、お待ちしておりますww。(橋下対案メソッドor橋下詐術メソッド:http://d.hatena.ne.jp/haigujin/20120303/1330780147

 

そんじゃーね。

 

それでもキラキラネームは間違ってる  ~人の感性は十人十色~

書かないでおこうと思ったのですが、あまりにのんきなぶコメに苛立って書きました。

I've done so very anger. It does not regret the even now.

  

【「キラキラネームは馬鹿にされるからかわいそう」説は間違っている】 http://bylines.news.yahoo.co.jp/kokorosha/20131016-00028978/

 

読みにくいので、こちらで改行と強調しました。文面は記事のままです。

 

「苗字はもともとそうだったけど、名前は親が意識的につける名前なんだから、いじめられないような名前をつけろ」という趣旨の発言をする方も多くいらっしゃいますが、想定しているいじめの状況がいかにも不自然なのです。

 いじめっ子が、「名前についてはいじめてもOK、苗字についてはいじめてはいけない」などと、謎のデリカシーを発揮してくれるとでも期待しているのでしょうか。

また、いわゆるキラキラネームに属さない名前でも、性器や侮蔑語に音が近い名前なら、それをあげつらっていじめる児童はいます。

「キラキラネームは馬鹿にされるからダメ」などという謎の主張ををするのであれば、キラキラネームだけに限定せず、シンプルに「名前でいじめるのはよくない」と主張するか、「いじめはよくない」という主張をすればスマートなはずです。

また、「すでにつけられた名前については問題ない。名付ける前の親への注意喚起としてキラキラネーム批判をしているのだ」という考えにも、やはり同種のおかしみがあります。

「これからつけられる名前についてはケチョンケチョンに言っていいが、すでにつけられた名前については、つけられた本人がかわいそうなので何も言わない」などという謎のデリカシーはついに発揮されぬままです。

その動機が注意喚起のつもりだったとしても、結局すでにつけられた本人たちをも震えあがらせるだけで、結果として、キラキラネーム批判は、いじめフリークたちやその親たちに餌を与える主張にしかならないのです。

 

悪いのだが、誰と何のために戦ってるのか分からない。

と言うより、あえて主張に対して誤読してるのでしょうか?

 

1)苗字は(結婚や養子縁組でもしない限り)変えられないが、名前は親がつけられると言う事実は無視ですか。親が自分の子供にいじめのネタを与えてどうしますか。

2)わたしは既に付けられた名前であっても、変えるべきだと思ってます。   手続きは面倒かつ手間ですが、不可能ではありません。

3)いじめフリークの存在を認めるなら、なおのこと、キラキラネームを止めようと主張するべきでしょう。それともあなたがいじめフリークをなくしてやるとでも?

 

つまり、「キラキラネームはいじめられるからよくない」という主張は、無意識に「名前で人をいじめることがあってもいい」、あるいは、「私は風変わりな名前の人のことをいじめるから覚悟しろ」を前提としています。

 

これも意図的に誤読してますよね。

「キラキラネームはいじめられるからよくない」という主張は、無意識に「名前で人をいじめるやつがいる」ことを前提にしているのです。

わたしの実体験の範囲ですら、名前でいじめる奴はいました。

子供のころもあったし、子の親になってからもありました。

 

○この文書を読んでてイラつくのは、自分自身の問題と考えてるとは思えない事。

 

筆者が、「自分の名前がキラキラネームじゃないのが気に入らん。今、家庭裁判所に改名を申請してる」とか「自分の子供にキラキラネーム付けました。カッコいいでしょう」と言ってるなら、主義主張に対して理解はしませんが、許容します。

でも、文章から感じ取れるのは、あくまで他人事として「いじめかっこ悪い」って言ってるだけ。

名前と言う極々パーソナルな事象に対して、当事者意識を持って意見表明しない人をわたしは信用しません。

 (お前なんぞに信用してもらう必要などない。と言われるだけですけどね)

 

さて、感情論ばかりもなんなので、いじめの実態を見てみましょう。

 

文部科学省 公表資料「平成23年度児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/24/09/1325751.htm

 

(2)調査結果の主な特徴  ※ 以下、数値については、平成23年度調査結果に基づく。 

 

1)小・中・高等学校における、暴力行為の発生件数は約5万6千件と、前年度(約6万件) より約4千件減少し、児童生徒1千人当たりの発生件数は4.0件(前年度4.3件)であ る。 

2)小・中・高・特別支援学校における、いじめの認知件数は約7万件と、前年度(約7万8 千件)より約7千件減少し、児童生徒1千人当たりの認知件数は5.0件(前年度5.5件 )である。 

3)小・中学校における、不登校児童生徒数は約11万7千人と、前年度(約12万人)より 約2千人減少し、不登校児童生徒の割合は1.12%(前年度1.13%)である。 

4)高等学校における、不登校生徒数は約5万6千人と、前年度(約5万6千人)より約6百 人増加し、不登校生徒の割合は1.68%(前年度1.66%)である。

  5)高等学校における、中途退学者数は約5万4千人と、前年度(約5万5千人)より約1千 人減少し、中途退学者の割合は1.6%(前年度1.6%)である。 

6)小・中・高等学校から報告のあった自殺した児童生徒数は200人と、前年度(156人) より44人(28.2%)増加している。

 

全体的に数値が前年比で減少してるのは良いことなのですが、それでも認知件数は1,000人に5件。 つまりは200人に1人の割合です。

他方、平成25年度の小学校の校数は、21,132校あり、合計の児童数は6,676,948名。

平均する(県によってばらつきは大きいのですが)と、1校あたり316名の児童が通ってることになります。

http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000001049722&cycode=0 のEXCELシート参照)

 

学校の規模によるのですが、平均すると1つの学校で1,2名はいじめられてる。

無論、“認知”されないケースもあるでしょうけど、数値が悪化する方向にしか行かないので割愛します。

つーか、わたしの子供も中学時代にいじめにあって、保健室登校してました。

 

いじめが良くないってことはみんな知ってる。少なくとも知識として理解してる(はず)。

だからPTAとかでも常に議題・話題になります。

ただ、正直な話、即効性のある解決策などありません。(と、実感しました)

ほんとに地道に、いじめかっこ悪いと啓もう活動を続けるしかないと思ってます。

 

で、本題のキラキラネームの話です。

なぜ必死に(顔真っ赤ww)にして叩くのか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。

  

わたしの場合の動機は極々単純で、いじめは簡単にはなくせないが、キラキラネームは親の意識を変えるだけでなくせる と言う1点です。

無論、その親の意識を変えるのだって大変なのでしょうけど、少なくともいじめを根絶するよりも可能性は高いはずです。

 

識者がいじめは良くない・いじめかっこ悪いと言い続けても、簡単にはいじめは減りません。

であるなら、いじめに子供を立ち向かわせるのではなく、次善の策としていじめられる要素を取り除いてやるべきと考えるのは、間違ってないと思います。

特に子供の名前は親がつけるものです。(親じゃない場合も多いのかもしれませんが)

親として子供の将来を考えて、少しでも不利益を避けようとする行為はわたしのとっての正義なのです。(無論、常識の範囲でですよ)

 

 子供からすると、自分の名前は与えられるものであり、自ら望んで得るものではありません。 また、気に入らないからと簡単に変えることも出来ません。

 

改名のためには、家庭裁判所に『名の変更許可』の申立てを行い、許可審判を受ける必要があります。 (戸籍法107条の2、家事事件手続法別表第一122)

首尾良く許可が下りたら、家庭裁判所から郵送される確定証明書を、区市町村役場(所)「戸籍係(課)」に行き、氏名の変更届に必要な事項を記載して、家庭裁判所で出た「許可の審判書(謄本)」と、その「確定証明書」を添付して提出する必要があります。

 

時間も手間もかかります。

 また、申請すれば必ず許可されると言うものでもありません。

 

名前は一生自分に付いてくるのです。

しかも厄介なことに、名付けた親は責任を取れないのです。

いじめにあって一番苦しむのは子供です。

名前を言って苦笑され、嫌な思いをするのも子供です。

 

それを第三者視点で、キラキラネームに対していじめは良くないと言い張るのは自由ですが、わたしは、いじめが良くないと言う前に、なぜそんな名前にしたのか?親としていじめと言うリスクを考えなかったのかを問いたい。

だからわたしはキラキラネームには反対するし、それを支持する識者なる方の意見にも反駁します。

きっと所詮感情論じゃないか と言われるのでしょうけどね。

 

問題は恐らく原価低減=人件費削減と勘違いしてること。  ~人の感性は十人十色~

「人は自分が観測した範囲でしか現象を把握できない」と言う実例をご紹介。

まあ、ブーメランである事は自覚・自戒しつつですが。

 

「生産性の概念の欠如」がたぶんもっとも深刻

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20131015

 

ぶコメが非表示なので皆さんがどんな感想をお持ちなのか分かりませんが、何と言うかこの『デマこいてんじゃねぇ』感が。

 

上記の記事の主張は、「お前らホワイトカラーもちゃんと生産性向上を意識しろよ」って事だと解釈しました。

 

たとえば(日本で唯一、生産性という概念が根付いてる)製造部門だと、「コストを3%下げる」っていう目標と、「コストを3割下げる」っていう目標を定常的に組み合わせて生産性を上げていく。

 

3%の方はこまごました改善の積み重ねで達成し、3割下げるほうは、設計思想とか組み立て工程を抜本的に見直したり、調達先を国内から海外に移す、もしくは、系列以外からも調達するとか、どーんと発想を変えることで実現する。

 

そういうことを、ずううううううっと繰り返して、生産性を上げる工夫を続けてる。

 

 

でもホワイトカラー部門って、あまりにこの発想がない。

 

「今日、8時間かかった仕事を、5時間で終わらせるんはどうすればいいか」って、ちゃんと考えたり、部門内でみんなで話し合ったり、実際に新しい方法でやってみて生産性を比べてみたり、してます?

 

とても、してるようには見えない人&会社が多すぎる。(これは一例に過ぎないけど、メディア業界とかもひどいよね。あたしもこの3年間にそれなりの数の取材を受けたけど、生産性概念がある人って皆無に近い気がしてる)

 

 

どうやら、ちきりんさんのいる日本とわたしのいる日本は別物らしいです。

製造業に関わっていると、間接部門(記事でご指摘の管理部門や営業など)まで含め「どうすれば生産性が上がるのか?」「どうやれば原価を下げられるのか」を一生懸命考えてます。

毎週原価会議をやって、いかに価格競争力を上げるか?って全部門が考えてる会社がほとんどでした。

 

但し、主目的は原価を下げる事で、そのためには生産性も上げないとダメだよね と言う話ですけどね。

これは残業代を払う払わないだけではないです。管理職が残業する分には残業代は発生しませんが、光熱費は必要ですから、原価を下げたければ管理職まで含め残業ゼロにする必要があります。

 

原価を下げるために極力ペーパーレスにするとか、管理部門で必要なデータは自動収集出来るようにするとか、営業の日報も移動中に出来るようにモバイル対応するとか。

営業の作る見積もりを自動化したいなんてご相談も頂いたりします。

(IT目線なのはご容赦。何せそれ以外のお話がこちらに来るはずもないので)

 

まあそれでも、営業部門の意識が他の部門よりは低いってのは、何となく感じますけどね。

競合があるだけに、単純に定時過ぎたら対応しません って事にはならないのでしょう。

営業は人間関係で仕事をする面が大きいので、代替要員を用意して・・・とは行きませんしね。

 

閑話休題。

 

問題は記事が指摘しているような「生産性概念の欠如」ではなく、原価低減=人件費削減と思ってる人が多すぎるという事だと感じます。

 

生産性が良かろうが悪かろうが、企業として利益が出るならOKってのが資本主義の根本だと考えます。

とは言え利益を上げる(増やす)ためには、原価を落とすor売価を高くする必要がある。

で、今時、高価格で物を売れるのはApple位ですから、その他の企業は原価低減に血道を上げることになります。(Appleも伝え聞くところによると、相当メーカーに厳しいようですが。実際はどうなんでしょうね。

 

製造業だと生産性UPと原価低減が結び付きやすいので、生産性向上を一生懸命にやる。

われわれIT企業も一部は始めている。

恐らく、海外と競合している企業では、原価低減と生産性向上がセットとなって進められているのではないでしょうか?

 

他方、わたみに代表(させるなと言われそうですが)されるような飲食業界やサービス業だと、人件費の割合が高いので、企業の競争力UP=原価低減=人件費削減 と言う思考になってるのではないでしょうか?

だからこそ、ブラック企業と言われるような、残業代不払い企業が生まれてくる。

 

生産性向上で少ない人数でも企業として活動できるようにする と言う考え方が出来ないのだと思います。

それは、生産性向上は目に見えるまで時間がかかる反面、人件費削減は目の前の支払いが減るのですから。

 

だからこそ「生産性がー」と言うのではなく、原価と言う観点から経営を語らないと、生産性の向上に向かうとは思えないのですよね。

 

とまあ、うだうだと書いてみましたが、経済産業省の調査報告とかつらつら眺めた方が有益だなあと思いました。

平成24年企業活動基本調査確報-平成23年度実績-

http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/kikatu/result-2/h24kakuho.html

 

労働生産性はH20年度に一度落ちたけど、以後は向上してるとか、その割に労働配分率は右肩下がりになってるとか、色々考える材料を与えてくれます。

 

ざっと眺めるだけでも、結構、面白いですよ。

 

そんじゃーねww

大学は留年・放校に踏み切れるのか?  ~人の感性は十人十色~

来年受験予定の子供を持つ身として、見過ごせない記事がありました。

 

国公立大入試:2次の学力試験廃止 人物評価重視に

http://mainichi.jp/feature/exam/news/20131011k0000m040148000c.html

政府の教育再生実行会議(座長、鎌田薫・早稲田大総長)が、国公立大入試の2次試験から「1点刻みで採点する教科型ペーパー試験」を原則廃止する方向で検討することが分かった。同会議の大学入試改革原案では、1次試験で大学入試センター試験を基にした新テストを創設。結果を点数グループでランク分けして学力水準の目安とする考えだ。2次試験からペーパー試験を廃し、面接など「人物評価」を重視することで、各大学に抜本的な入試改革を強く促す狙いがある。実行する大学には補助金などで財政支援する方針だ。

 

馬鹿を言うな!です。

今の大学は、「勉強しさえすれば入学できる」から良いのです

受験生の人物評価って何?誰がやんの?誰が、その評価に責任持つの?

試験+数回の面接を実施してる企業でさえ、ミスマッチな人材を採用する事があるのに?

 

千歩くらい譲って、人物評価なるもので入学者を決めるなら、入りやすく出にくい大学教育が必須と考えます。

今みたいに、入りさえすれば卒業出来る みたいな授業・試験ではお話になりません。

まあ、そう言う方向性(入れるけど脱落も多い)で進むなら、それはそれで一理ありますが、教育内容をどうすると言う議論があるとも思えないのですよね・・・

 

下村文科相は「学力一辺倒の一発勝負、1点差勝負の試験を変える時だ」

試験についてしか言及してない時点で、溜息しか出ませんね。

日本国の大臣たる人が、学力こそが大学に必要であると思わないのでしょうかねぇ。

 

絶望した!学力ではなく人物を評価して合格者を決める日本に絶望した!

と叫びたくもなります。

精神の病は誰にも分からない。医者でさえも。  ~人の感性は十人十色~

痛いニュース(ノ∀`) : 【画像】 「新型うつ病」がクズすぎると話題に - ライブドアブログ

 http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1777123.html

コメント見るとまあ、好きかって言ってますなぁって感じです。

 

わたし自身がうつ病でしたし、部下に新型うつ病と思われる人を抱えたこともあるので、体験談含めご紹介。

◎新型うつ病と言われている症状は、少なくとも医者の前ではうつ病と同じ。

  医者から聞いた話ですが、病院診療で「うつ病」と「新型うつ病」を明確に見分ける方法はない そうです。

  まあ、医学も進歩してるんで、今は多少診断出来るようになったのかも知れません。

  ただ、心の病って直接見る方法がなく、カウンセリングに頼らざるをえないので、「本人がうつ病だと信じ込んでいる場合、新型うつ病だと診断する材料はない(=うつ病と判断する)」そうです。

 

個人的には、新型うつ病って適応障害の一種じゃないかなぁとか、勝手に思ったりしてるのですが、本人が悩んでるのを知っているので、気持ちが多少は分かるだけに、批判に対して反発したくなります。

人の心がレントゲンみたいに見えるようになれば、随分違うのでしょうけど。

 

ちなみに病を抱えた部下は、残念ながら退職しました。

もっと何とか出来なかったのか?と悔いはあります。